21世紀に入り、現代社会はますます多様化の道をたどり、人々の考え方も複雑化している。
このコーナーでは、世の中に起こる出来事や様々なテーマを「藤岡弘、」が、
「藤岡弘、」ならではの切り口で「一刀両断」する。



2006年3月9日

変身ベルト

この度、私が演じた仮面ライダー1号の変身ベルトが大人向けとして発売されることになった。 仮面ライダー、本郷猛を演じて35年が過ぎた今、当時仮面ライダーに夢中になっていた小さな子ども達も立派な大人に成長して、年齢的にもまさに丁度社会の中核を担っている。
今なお街中で「私は仮面ライダーの大ファンでした」と握手を求めてこられる方も多い。 その多くはお子さん連れで、家では仮面ライダー1号のビデオを子どもに見せていて、子どもと一緒にライダーごっこをしているそうだ。そんな人たちにとっても今回の変身ベルトはうれしい物なのだろう。また、小さいころ変身ベルトを買ってもらえなかった人たちが昔を懐かしんで買ってゆく人もいるかもしれない。「自分たちもライダーみたいに変身したかった」そんな夢をかなえてくれるのが変身ベルトなのだろう。
しかし、変身は何も体の変身だけではない。「自分さえよければ他はどうなってもよい」というような自己中心主義ではなく、一人一人が社会のため、世界のために貢献できる「心の変身」を遂げてほしい。
一人一人の力で世界を争いのない平和にしていくことができれば、みんながヒーローになれる。

                  合掌

 


「一刀両断」のテーマをお寄せください。藤岡弘、へのご質問でも結構です。

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また、いただいた全てを掲載するものではありませんのでご了承ください。


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2005年7月9日

この武士道ブームが最後のチャンス

私は仕事やボランティア活動を通じて、世界中を歩いてきた。欧米諸国はもちろんのこと、南米やアフリカ、それにアジア各国…。国の数でいうとざっと100か国に達するだろう。その結果 、ようやく日本という国を一歩引いて客観的に眺められるようになった。 曇りの無い目で見てみると、現在の日本にはエゴイズムという名の化け物がはびこっているのがよく分かる。家族や郷土のきずな、ひいては隣人や民族のつながりを次々と放棄し、自分さえ良ければいい、儲かりさえすればそれでいい、こんな自己中心的な拝金主義がまん延してきた。特にバブル経済以降のこの20年間は社会的な混迷も加わり、ひどいことになっている。かって、世界各国から「大和民族」として一目置かれていた日本人と、同じ民族だとはとても思えない状況だ。
ほんの少し前まで、日本人は自覚のあるなしにかかわらず、「武士道」を行動の基準にしてきたはずだ。私の考える武士道とは好戦的なものではなく、むしろその正反対の思想で、自己の行動についての責任を完璧に取り、使命感を抱くことを指している。武士道に基づいて育ってきた人間は素直に感動するし、感性や品格、さらには人格も非常に高いレベルで完成されていたものだ。こうした個人が集うのが社会なのだから、日本という国家は内からも外からも信頼されていた。 第二次世界大戦後、日本人は武士道の核心部分を徐々に捨てていき、バブル期以降は完全に忘れ去ってしまった。その“ツケ”が今になって回ってきたということだろう。世界各国のたくさんの人々の希望に輝く瞳を見てきた私にとって、祖国・日本の現状を振り返るとついタメ息をついてしまうのだが、まだ希望も残されている。新渡戸稲造の名著「武士道」が海外で見直され、ハリウッド映画「ラスト・サムライ」が一定の評価を得たことだ。
今回の武士道ブームはこれまでとは違い、その本質をかなりとらえているのが特徴だ。海外でのブームは日本に“逆輸入”され、若い世代の日本人にも感動を与えたと聞いている。このブームが日本人にいま一度、本当の武士道精神を取り戻させるラストチャンスと言ってもいい。若者たちよ、目覚めよ気付けよ、そして覚醒せよ!

                  合掌

 


2004年1月24日

「ジェンダーフリー」に想う

男は「男らしく」、女は「女らしく」という男女の違いは、日本の伝統文化を形作ってきた根底に根づいている。 しかし、その様な男らしさや女らしさの違いをある意味で認めないジェンダーフリーとは、危険ではないだろうか。 男は男として、女は女としての役割分担があるはず。 家族愛、家族の絆こそ、家庭崩壊、家庭破壊をくいとめる最も重要なカギであると私は思う。フリーセックスや過激な性教育等、蔓延する社会現象は、家庭、社会、国家の崩壊へつながっていくことを考えると、ジェンダーフリーとは、大変な大問題であると私は思うのである。 家庭の幸福と安定こそが、国の基礎であると私は思うのである。

                  合掌

 

2003年7月18日


人は嬉しいときや感動したとき、悲しいときや悔しいとき等様々な状況の中で涙を流す。涙の尊さとは。
人間は他の動物にはない豊かな心と感情と、知恵を持つ。だから、他人を思いやることが出来るし、他人のために涙を流す事も出来る。この涙が尊いのだ。自分のために泣くのは、誰でも出来るだろう。だが、他を思いやり、その人の痛みを自分の痛みとして感じ取り涙を流す。他のために努力をし、共に喜びを分かち合い、そして涙する事が出来たとき、己もまたひとつ成長しているのではないか。
今、世界で流されている、悲しみの涙を、己の事として感じた時苦しく胸が痛み涙が流れる。人間が人間としての誇りを取り戻し「共存」「共栄」「共生」「共有」する日が一日も早く来ることを願わずにはいられない。

                 合掌


2002年5月18日
責任

この<SAMURAI-DO>で私が一番に伝えたいモノ、それは「武士道精神」である。 「武道」のコンテンツの中にも書いているが、「武士道精神」の本質は「責任をとる」ことであろう。
かつては、食料を作る事に命を懸けた「農民」達や、道具を作る事に命を懸けた「工人」達や、 商いをする事に命を懸けた「商人」達を、 すなわち「全ての民」と「国」を守るために、武士は自らの命を懸けていた。
自己の身を犠牲にしながら、時には腹を切ることですべての「膿」を背負い、 「全ての民」と「国」を守っていたのだ。
皆がそれぞれの立場で、分をわきまえ、与えられた責任を全うする国、 まさしく道義、道徳大国と呼ぶにふさわしい精神性と歴史がこの「日本」にはあったのだ。

しかしながら、今現在に目を向ければどうだろう。
人を非難し、裁き、中傷し、引きずり下ろす事に一生懸命な人々や、 万人を欺き、嘘を取り繕い、弱き民を見離し、 利権に群がり、それでも自らを省みる事もなく、 自己陶酔をしているエリートと呼ばれる人達の姿たるや 私利私欲に取りつかれた、誠に哀れな悲しき存在に見えて仕方がない。 彼らの「人格」や「品格」や「気品」は一体どこに置いてきたのだろうか。
そこにはかつての美しかった日本の「心」「精神」「魂」「文化」を見ることが出来ない。 現代における道義、責任、倫理、道徳の喪失は、誠に嘆かわしい。
「恥」と「誇り」と「罪悪感」が無くなると社会は乱れ、ひいては国家が乱れていく。
誠の自由と平和と幸福は、自らが命を懸けて、 その責任を全うしなければ手にすることは出来ない。 これはどの「国」や「民族」においても同じことである。 社会的な地位における責任、そして人間としての責任。
責任感と使命感なき民族、道義、道徳なき民族は滅びるということを
肝に銘じて生きるべし。

合掌

 

夫婦別姓

君自身が、両親から「父親か、それとも母親かどちらかを選びなさい。」 こんな問い掛けをされたらなんと答えるだろう。 私はそんな事は選べないし、選びたくない。
ここのところ、たびたび耳にする「夫婦別姓」。 私はこの制度には賛成できない思いが強い。

女性の社会的進出や、自立は、21世紀になってますます盛んになり 大いに結構だし、大変に素晴らしいと思う。
この事と夫婦別姓論議は密接に関わっているとは思うが、私はあえて言いたい。 やはり、家族の「姓」は現在の形が望ましいのではないか。
私は常々、人の基本は「家族」であり、「家族」がすべての元であると言い続けている。 家族の愛が正しき人を育む。そして街に出た人が今度は地域社会を作りだし、 それは大きな集まりとして「国」になる。そして国が集まり、世界が出来る。 人間社会は言うまでもなく「人」の集合体なのだ。 だから、「人」が育まれる根幹がぐらついてはいけないのだ。

家族が一つの「姓」にまとまらない。これで「絆」は生まれるのだろうか。 2つの「姓」に別れた家族が「強い絆」をもって一致団結することが出来るのだろうか。

これから新しく「家族」になろうとするパートナーと、同じ「姓」で生きていく。 ロマンティックで素敵じゃないか。そして新たな「家族」として、次世代へ命の連鎖を繋げていく。
一時的に面倒や多少の不便があっても、越えられないハードルではないと思うが・・。

人はひとりでは生きていけない。そして人が最後に帰り着くのは「家族」の待つ家だ。 それは人が生きていくかぎり、変わらないだろう。 家族の「姓」。それは「絆」の象徴であることを忘れないで欲しいと私は思う。

国家と世界の安定と平和と繁栄と幸せの基は、すべて「家族愛」にあり。

合掌

 

ワールドカップ

いよいよワールドカップの開幕だ。夜も眠れないほどに楽しみにしている人も多いことだろう。

世界中が何故、これほどに盛り上がりを見せるか。それは間違いなく、威信と誇りをかけた「国」対「国」の対抗戦だからである。普段、「国」ということを余り意識しない日本人もこの時ばかりは意識せざるを得ないだろう。

ピッチで戦う代表選手の中に、祖国の誇りを感じるからこそその戦いが尊く、気高く映るのだと思う。戦争、紛争といった悲しくつらい戦いではなくスポーツという美しく、激しい戦いに国の威信を懸ける。これこそが本当の平和の姿であろう。

そこに、戦う若者には、その国の未来が見えるではないか。
さぁ、みんなで我が国の代表を声が枯れるまで応援しよう。
彼らと一緒に戦おう。国に誇りを持ち、未来を信じ、夢を育む。
民族も、国境も、すべてを越えて、世界の祭典、ワールドカップを楽しもうじゃないか。


2002年1月23日

エッジ

優れた芸術は、エッジの中からしか生まれない!私の大親友、歌手のジョー山中氏の言葉である。本物の世界。けだし、名言ではないか。今、世の中で評価されている音楽や、絵画をはじめとする様々な芸術の中には、狂気とも思えるような迫力を感じる作品は数多い。平凡で満たされた生活の中では、研ぎ澄まされた感性は養えないと言うことなのだろう。しかし、言い換えれば、人は追いつめられ、苦しみ抜いたときにこそ、思いもかけない力を発揮できるということだ。そんな時にこそ人は自分に隠されたあらゆる可能性について考えるからだ。そして決して諦めない者は、いつかきっと報われる。そう、自らのエッジ(瀬戸際)を楽しめばいいのだ。今、リストラや思わぬ不景気で思い悩んでいる人がたくさんいる。だが、決して腐らず、自分の可能性を信じてチャレンジを続けて欲しい。ピンチの時というのは、同時に大きなチャンスでもあるのだ。若者よ。エッジに立ち、己を磨け。闇が深まれば深まるほど、光が見えてくる!

合掌、

藤岡 弘、

 

壊れたせんべい

私の育った家庭は、お世辞にも裕福とは言えなかった。今日の米が無いということもしばしばだった。そんな時、母は、せんべい屋で壊れてしまって売り物にならない、せんべいの粉を買ってきた。大きな袋に入った壊れせんべいを10円ほどで売ってもらうのだ。子供たちをひもじいまま眠りにつかせるのが可哀想と思ったのだろう。時には、自分は食べたと偽ってお茶だけをすすり、子供たちに食事を与えてくれていたのも、私は知っていた。そんな母親の愛は暖かかった。貧しくても心は豊かだったし、今も母に対して感謝の気持ちを失うことはない。
先日出演した某番組に出ていた女子高生達は、たった数万円もらえれば、援助交際するのは平気だと言った。それも一人や二人ではないのだ。そんなの今どきの常識だと言う奴も居るかもしれないが、明らかに間違っている。
この子達はきっと、貧乏でもないし、欲しいものはなんでも与えられて育ったのだろう。彼女達が生まれたころの社会はバブル経済の中、「身勝手さ」と「自由」をはき違えていた。そんな時代に育った人達に『壊れたせんべい』など、ただのノスタルジィアにしか聞こえないかもしれないが、そこに込められた『親の愛の深さ』について考えてみて欲しい。
その中に見ることが出来る『想い』や、『願い』や、『夢』や、『暖かさ』や、『熱さ』や、『痛さ』を知れば、自分という存在は、どれほどの価値があり、大事にしなくてはならない存在であるという事に気付くはずだ。
人は『愛』を踏みにじってはいけないのだ。人は『大いなる愛』によって、生きられる。

合掌、

藤岡 弘、

 

 



アメリカで起きた、同時多発テロにより世界は、今、大きな試練を与えられている。
この事件は我々日本人に対しても、多くの課題を投げかけてくる。
近くこの事件に関しては、別の形でその思いを語ろうと考えている。

2001年10月3日

 

歴史(ルーツ)

先日、京都の古本屋で今にも捨てられそうになっていた、多くの古本書を見つけた。それは、いうまでもなく多くの先人達が残した、まぎれもなくこの日本の歴史にまつわる文書だった。武道はもちろん、先人達の生き方が記されている貴重な文献だ。 主人に尋ねると、もう誰も見向きもしないので処分待ちになっていたというではないか。そんな事になったら大変だと思い、全部をその場で買い取った。現在のように写真やビデオ等がない時代の歴史は、人が書いた文でしか得ることが出来ない。それを焼き捨ててしまったら最後、我らの先人から続いてきた道筋が消えてしまう。一度消えてしまったものは二度と次の世代に伝えることが出来ないのだ。 我々一人ひとりは、まさに奇跡の存在だ。祖先の誰一人がかけても今の自分たちは存在しない。我々はどこから来て、どのように生き抜いてきたのか。自らの民族のルーツを辿るという事は、そのアイデンティティを知ることに繋がるのだ。歴史というものは決して失ってはいけない大切なものである。


エチオピアで見たもの。

以前ボランティアで訪れたエチオピアで遭遇した出来事である。我々一行に昼食としてチキンバスケットが配られた。チキンバスケットといっても、日本で食べられるものみたいに立派なやつとは比べ物にならない、どこに肉があるのかと思うような代物なのだが・・・。それを私が食べようとしていると、難民の子供たちがぐるりとまわりを取り囲み、じっとその様子を凝視している。とても口に運べる雰囲気ではなく、その骨のようなチキンを一人の子供に手渡した。すると、その途端にそれを奪い合う子供たちの壮絶な争いが始まってしまった。既に口に入ったチキンを力ずくで引っ張りだしたり、殴り合ったり、それはものすごい光景だ。何人もの子供達がたった一切れのチキンのために血だらけになり、殴り合っている。肝心のチキンは奪い合っているうちに泥だらけになり、食べ物とは思えない状態になっているのに、まだ奪い合う子供たち。飢えとは人間をここまで追いつめるものなのか。それ以来私は食べ物を残せなくなってしまった。食べられることが当たり前に感じられる我が国の現状は、なんと恵まれていることか。食べられることへの感謝は、人間として、忘れてはならない気持ちだと再認識させられた出来事だった。
そして忘れてはいけないもう一つのことは、この子供たちをこんな状況に追い込んだのは、戦争や紛争だということだ。人と人の争いに苦しめられるのは、いつもか弱き子供と女性なのだ。

 

今改めて、靖国問題に思うこと。

この夏、日本を騒がした話題は「靖国問題」であった。首相の参拝に賛成の人、反対の人。国内外を分けてのまさに大論争だった。それぞれの意見があることは大いに結構である。しかし、私はこの国のために命を捧げ、死んでいった人の魂に手を合わせることに対し、なんらやましいことはないと思っている。戦争という、あらがうことの出来ない巨大な時代の潮流に飲み込まれ、無念な気持ちを抱きながらも、家族を思い、国を思い、死んでいかなければならなかった人々がいたからこそ、今我々は生きているのではないか。彼らを尊び、彼らに感謝し、彼らの安らかな眠りを祈り、二度と戦争を起こさないという平和への誓いを立てることは、日本人としての当然の気持ちであると思う。私自身、世界の平和を祈念してやまない。近隣諸国の捉え方はそれはそれで仕方のない事かもしれない。戦争を美化することがあってはならない。が、日本人が日本人として主張しなければならない事もあるはずだ。そもそも日本人は臭い物に、フタをしたがる所がある。だが、世界状況が大きく揺れている今、こういった民族の本質の関わる問題というものは一過性の話題ではなく、きちんと論議すべき問題であると思う。この問題は、夏の季語ではないのだ。そして今、日本人は世界の中で何をするべきか、一人ひとりの問題として捉えていくことが必要な時代になったと言えよう。

 


 

2001年8月22日

 

今後演じてみたい役柄

時代も21世紀になって、これからの社会はどう変わっていくか。また、どう変わっていけばいいのか。昨今、アメリカが環境問題をはじめとするいろいろな事で、世界的に孤立をするような雰囲気がある。国としての視点。そして世界(地球)としての視点。そのスタンスの違いが浮き彫りになっている出来事だと思う。21世紀はこうしたことが問われ続ける世紀なのではないか。「国」とは。「世界」とは。「地球」とは。そんな時代の流れの中で飲み込まれていく人間。そこには様々なドラマが生まれていくだろう。自らの「信念」と「義」にしたがって生きる者たち。そこに流れる「自己犠牲」の精神。そして、彼らが織りなす「国境を越えた闘い」や「ラブストーリー」。是非そんな映画に出てみたいと思う。世界を舞台に「武士道精神」で、立ち向かう。そんな役を演じていけたら、素晴らしいなと思っている

 

コーヒー

30代のころ、TVや映画の出演が忙しく、睡眠や休養も満足にとれず、肉体的にも精神的にも疲労のピークに達した時があった。そしてそれを少しでも紛らせようと、毎日14〜15杯のコーヒーと酒を飲み続けていた。それはやがて、ドクターストップを宣告される羽目となり、私は一時期酒とコーヒーをスッパリやめた。今も酒は飲まないが、コーヒーは愛飲している。もちろん1日15杯なんていう暴飲はしない。豆をその場で挽いて、山で汲んだ岩清水を使ってじっくり落とす。立ち上る湯気から漂ってくるコーヒーの香りをかいでいると、それだけで落ち着いた気分になる。手間は掛かるがこうして一杯づつ楽しんでいく過程こそが、コーヒーの醍醐味ではないかな。自分の好きな場所でじっくりと入れたコーヒーを味わう。手軽にできるけど、すごく贅沢な時間だね

 

和菓子

「あすか」で和菓子職人「禄太郎」を演じることになった時、老舗の和菓子屋さんに練習に行かせてもらった。和菓子職人「禄太郎」を、命懸けで家族を守る、良き時代の父親として演じたかった私は、映像の中にエネルギーと迫力を持たせたかった。だから、和菓子を作る一つ一つの仕草にも、真実を込めたかったのだ。教えていただいたその技術はいってみれば「匠」の世界。それはもう奥が深い。そこには日本文化の源流を見た思いがした。一つ一つに精魂を込めて、造形の美と奥の深い味を追及する和菓子は、世界に誇れる日本の伝統であろう。「禄太郎」を演じたおかげで、今でもいろいろな和菓子を送ってたいただいたりするので、最近は家にいながらいろいろな和菓子が楽しめる。誠にありがたい、これぞ「役得」というところであろうか。

 


 

2001年8月1日


仮面ライダースペシャルライブ2001 in 名古屋

INFORMATIONでも告知しているが、昨年の12月、東京で行われたライブステージを名古屋で行うことが決まった。またしても「本郷猛」そして「仮面ライダー1号」となる時がやって来たわけだ。私自身も、今からとても楽しみにしている。今回は、昨年末の東京で行われたライブをさらにパワーアップして、より楽しんでいただけるものにしようと、スタッフも張り切っているのでぜひ楽しみにしていただきたい。仮面ライダーの持つ「愛」と「正義」と「勇気」を、名古屋の皆様と共に楽しみたいと思っている。

 

ジョン・ウェイン

先日、NHKの「夢伝説」という番組でアメリカが生んだ英雄「ジョン・ウェイン」について、語る機会があった。「ジョン・ウェイン」は何故、あれほどまで人々に支持され、ヒーローとなりえたのだろうか。それは、アメリカという国が、多くの移民や、開拓者によって作られた国であるということが大きな理由であろう。彼は、とても「愛国心」の強い男だった。映画の中でも、一人の人間としての生き方においても「愛国者」であり続けた。その姿がアメリカの人々の心の奥底にある「開拓者精神」を揺さぶり、共感を生んだのだろう。人々が幸せに生きていくときに、その根幹となるものはなんだろう。まずは「自分の住んでいる国」だ。国が潰れてしまったら個人の生活など、たやすく吹き飛んでしまう。そしてその国を作るのは誰だ。それは言うまでもなく「民」すなわち「人」だ。そしてその人を育むのは何か。「家族」だ。そのことを誰よりも痛烈に彼は、感じていたのではないか。そしてその思いがスクリーンから、人々へと伝わったからこそ、彼はアメリカのシンボルとなったのだろう。西洋の時代劇というべき「西部劇」で描かれる「愛国者精神」。そして日本の時代劇において描かれてきた「武士道精神」は、時代は変われど、伝承されるべき、気高いものであると私は信じている。

 

歩き煙草 ※このテーマは、ファンの方から寄せられたものです。

今に始まったことではないが、街には「歩き煙草」をする人が結構多い。男ばかりではなく女性も数多くを見かける。彼らは、その危険を理解しているのかなと疑問に感じてしまう。小さな子供の顔や目にちょうど当たるような高さで、火を振り回していることに何故、考え及ばないのであろうか。そもそも煙草というものは非常に厄介なものである。立ち上る煙は風に乗って何処へでも流れてしまう。そこには、それこそ生まれて間もない赤ん坊もいれば、のどを患っている人だっているかもしれないではないか。煙を完璧にシャットアウトしてくれれば問題ないが、宇宙服でもかぶらないかぎりそんな事は無理だろう。いっそのことヘルメットをかぶってその中で吸ってもらいたいものだ。そうすれば吐き出された煙がいかに迷惑なものだか理解できるだろう。ルールとマナーを守って喫煙をする方には片腹痛いことだろうが、現状を見るならば、そこにはモラルのかけらもない自己中心的な者たちがいかに多いかという現実にぶちあたるわけだ。そもそも行政の喫煙に対するルールの遅れも問題であろうが、もう少し何とかならないものか、嘆かわしい事である。

 

座り込む若者

最近の若いやつらは、どうしてあんなに座り込むのだろう。道でも駅のホームでも平気で座り込む。しかも立派な長い足を投げ出しているから周囲も邪魔でしょうがない。彼らの体からは「気」の気配すら感じることが出来ない。「使命感」も「目的」も「自分のアイデンティティ」をも、持ち合わせているかすら、はなはだ疑問である。ああいった連中を見ていると、私の体の中から「せがた三四郎」を呼び起こし、バッタバッタと投げ飛ばしてやろうかと思うくらいだ。
自分の生きざまに「信念」と「意義」を持てば、もっと背筋も伸びるはずだ。シャンとしろ!シャンと。



2001年7月12日
<今回はファンの皆様からお寄せいただいたテーマの中から取り上げました。>

バリアフリー

私の育った、四国、松山という場所はお遍路様の通り道である。幼少時代、八十八箇所をめぐるお遍路様達が来るたびに、おもてなしをするのはごく普通の事だった。私の家だけではなく地域全体がそうだった。皆で彼らをサポートするのは、自然な行為として受け止められていた。そんな風土の中で育ったことは、私がボランティア活動に参加していることと無関係ではないと思っている。
今は、社会的にもバリアフリーという言葉をよく耳にするようになったが、現実はまだまだ厳しい。体の不自由な方や、赤ん坊を連れたお母さんたちが街の中を歩くには、苦労も多いし、危険も少なくない。普段我々が、普通に歩くスピードさえも彼らにとっては、激流の中にいるようなものらしい。車椅子やベビーカーに平気でぶつかる人も少なくないそうだ。バリアフリーの施設整備はもちろん重要なことだが、社会全体の「精神」が成長しないことには意味がない。何もたいそうなことではない。そういう人を見かけたら、一歩立ち止まって道を作ってあげればよいのだ。5秒で出来る。困っているようなら、手伝えばよいのだ。そうすれば自分の気分も良くなる。一石二鳥だ。この日本に住まう人が皆、人の痛みを知り、自らの「我」(心のバリヤとでも言おうか)を取り除くことができれば、本当の意味での「バリアフリー」な世の中になるだろう。

 

自分の子どもに、どのように生きる術を教えるか。

大阪で起きた児童殺傷事件などを見るにつけ、いかに自分の身を守り、また子供たちに何を教えるべきか、はたまた家族以外の何を信ずることが出来るかと言った質問をいただいた。昨今の事件を見れば、幼い子どもを持つ親であれば当然不安がよぎることと思う。だか、ここで大事なのは、まずは自分の子どもを間違ってもそんな大人に育てないことではなかろうか。そこで、一つ提案したい。子供たちに「武道」を教えよう。と言っても勘違いはしないで欲しい。武道は勿論、護身術になるが、子供たちに習わせたからと言って、突然襲ってくる凶器を持った大人にかなうはずもない。立ち向かうためではないのだ。第一の目的は、「精神」の修養だ。礼に始まり、礼に終わるといった「武道」の中にある礼節を知る事。第二の目的は、その鍛練を通じて、肉体の痛みを知る事。それを知ることによって、自分勝手な暴力がいかに危険で愚かなことであるかを教えるのだ。痛みを知っているものはむやみに人を傷つけようとはしないものだ。それ以外にも大事なことがある。厳しい練習を通じて、仲間も出来るし、ライバルも出来る。強くなれば自分にも自信が湧くものだ。そんな環境に置くことで子どもの中に一本しっかりとした芯が通るはずだ。親子で一緒に道場に通ったりすれば、親子の信頼関係も強くなるに違いない。
それともう一つ、子どもには、何かあったら、全力で逃げろという事を日頃から教えておくことだ。逃げるというと卑怯だという人もいるだろうが、兵法において、逃げるということは立派な戦術である。何しろ逃げ切れれば絶対に負けないのだから、ある意味「最強」の兵法といえる。

 


ボランティア活動や講演会の中で時々「真剣斬り」の演舞を行うことがある。客席からそんなに距離のないところで行うのだから、一歩間違うと大変なことになる。だから、演舞の時はぎりぎりまで精神を集中しなければならない。自分で言うのもおかしいが「真剣斬り」を行っているときの自分は、別の「魂」が宿っていると感じることがある。巻き藁を切り終わった後、ふと気がつくと自分の着ている道着が、細かく切れていることがある。いつどうやって切れたかはわからない。そういうことが意識の外に行ってしまうのだ。しかし、そうなったからといって精神的に決してキレたりはしない。日頃から鍛練するのはそういった状態をいかにコントロールするかと言うことなのだ。
刀には魂があるというが、それも本当だと思っている。私以外の人間が持とうとすると研ぎは悪くないのにうまく切れなくなってしまうのだ。逆に刀の研ぎが悪いときでも私が念ずるとその時だけ切れてくれたりする。にわかには信じてもらえないだろうが本当なのだ。刀はそれを持つ者の精神状態を鏡のように映し出す。映し出された心の中に「我」が残っているうちには、刀は言うことを聞いてくれない。「カガミ」の中から「我」がなくなり、「カミ(神)」になったとき初めて使う者と一体となる。
刀の刃(やいば)は、己の心の刃(やいば)である。それを修めることの出来ぬものには刀を扱う資格などあろうはずがない。今は亡き父が私に教え説いた「カガミの我<ガ>をとれ」という言葉にはそんな警鐘が込められていると思っている。


 

男とは、女とは

これまた、根源的で難しいテーマをいただいたものだ。「子」として、「兄弟あるいは姉妹」として「友」として「恋人」として「親」としてどう発言し、どう行動したらよいかといった質問なのだが、とても一言で言えることではない。それぞれが個々のテーマとして今後も出てきそうだから、各論はそこに預けることとして、一つ別の角度で考えてみよう。ここに出てきた如何なる場合も基本的には、一人の女性であり、一人の男性であることに変わりはない。それぞれの立場でどうあるべきかというよりも己として、どうあるべきかが大切なことだと私は思う。一人ひとりの人間は皆、自然から与えられた命であり、自然の一部であるのだ。男は女を愛し、女は男を愛し、やがて女が子を宿す。自らの子宮の中で一つの生命を形作り、それを産み、自らの乳を与えながらそれを育てる。これはすべて大自然の一環であるわけだ。その中には生き物としての普遍的な、何事にも変えがたい幸せがあるはずだ。それでいいではないか。人間として文明社会の中で生きていくうえにはいろんな飾りがついてくるが、本来そんなものはなくても良いのだ。今日、自分の愛する者達と生きている。それだけで充分幸せだ。「足るを知れ」という言葉にあるように、自らの分をわきまえて生きていくことが、「男」「女」という性別を越えて「ひとりの人間」として大切であり、また幸せなのだと私は考えている。

 

 




2001年6月23日

仮面ライダー

私にとっては、青春そのものの作品だ。私が演じたのはもう30年も前のことになったが、未だに世代を超えて受け継がれているのは、いかに「仮面ライダー」に託された「愛」と「正義」と「勇気」というメッセージが普遍的なものであるかということだろう。この作品は、まだ汚れを知らない子供たちに、「善」「悪」を見極める事を教えながら、「弱き者に手をさしのべる」という、人としての正しき生き方さえも伝えることができる素晴らしい教材であったとも言えよう。
子供は言うまでもなく「地球」の未来であり、「地球人類」の宝である。「仮面ライダー」というドラマは、その子供たちに正しき情操教育を施し、正しき道を歩ませるための道標になっているからこそ、今もなお国境を超えて支持され続けるのであろう。「仮面ライダー」もまた、「世界の宝」であるといっても言い過ぎではないだろう。


特捜最前線

この作品も私のキャリアの中で欠かせない作品だ。この作品の中には、当時の社会背景やさまざまな事件、その時代の中に生きた人間の「表」のみならず「裏面」に潜む悲哀が、切々と描かれていた。そこには、生きるということの「痛み」と、人間としての「学び」があった。詳しい確認はなかなか出来ないのだが、今でもいろんな放送局で再放送もされているようで、それほど根強い人気番組だったといえる。この作品は、私がハリウッドへ進出した時期とも重なっているため、なおさら印象深い。今また「桜井」を演じることが出来れば、ひと味もふた味も深い「桜井」を演じられるような気持ちもあるのだが、ファンの皆さんはどう思っているのだろう。

 

白い牙

白い牙もいろんな意味で印象深い。恋人の兄とは言え、自分を裏切った友人をかばうために「刑事崩れ」に身を落とし、それでも自分の信じた正義のために生きる「有光洋介」と云うキャラクターは、都会の中で一人で闘う私自身や、「本郷猛」のもつ孤独感や悲壮感に相通じるものを持っていたと思う。悲しき一匹狼として、たった一人で巨悪に立ち向かい、そして悲劇的な結末を迎えようと、己の信念を貫いたこの男こそ、いまの時代に必要なのではないだろうか。このドラマでは、私の人生においての大きな出来事もあった。そういった意味においても忘れられない作品と言える。

 

 

 

オートレース

命懸けの素晴らしいスポーツだと思う。そこで戦う選手達もいいね。20代の若者ももちろんだが、もう50を超えて頑張っている選手もいる。その全員が日々、苦しい訓練に耐え、己を鍛え、栄冠に向かって一歩間違えば死と隣り合わせという危険なレースに飛び込んでいく。今この時代の中で日々、命を懸けて燃えて、闘い続ける若者がどのくらいいるであろうか。その必死の姿に、感動や夢があるのだ。だからこそ、私の血を騒がせるわけだね。

 

 

イチローと新庄

世界のトップレベルの中で堂々と戦っている彼らには「サムライ魂」が見てとれる。ベースボールの本場で自分の力だけでのし上がっていく彼らを見ていると、孤高の侍を連想してしまうのは私だけではないだろう。日本男児として、日本を背負って戦う「真の男」の姿にこの国の将来の希望を感じる。若者たちに、もっともっと彼らに続けと言いたいね。

 

 

多発する少年犯罪や児童殺傷事件

病んだ若者が、なぜこんなに増えてしまったのだろう。一つの大きな理由は叱れない大人が多すぎる事かもしれない。自分の親からもろくに叱られずに育ち、「我慢」するという事を知らない彼らは、すぐに「キレる」し「ムカツク」のだろう。人の心を知る。人の痛みを感じるといったことを、大人が自ら規範を示し、体と体をぶつけ合いながら伝えなければいけないのだ。それをやれるのはやはり「家族」だ。親が子を愛し、子も親を愛する中から生まれる「絆」「団結心」といったものが、子供を正しく導くのではないか。生まれて最初の先生は親なのだ。家庭内教育をしっかりと行い、「自分さえよければいい」などといった「エゴ」を持たぬよう教えることだ。「家族愛」というものを知ってさえいれば、人が慈しみ、育んできた幼い命を手にかけるなどという残虐で、卑劣な行為などできるはずがないのだ。あまりにも悲しすぎる事件を二度と起こさないために、社会全体の中で子供の教育について考え直す時が来ている。

 

インターネット

世界中のさまざまな人が自由に、簡単にグローバルな発信が出来るインターネットは本当に素晴らしい技術だと思う。ここには自由と発展がある。しかし、ここで考えてほしい。インターネットの「情報」は権力を持たない人々の、大きな力にもなってくれるが、その匿名性ゆえに「心無い発信」の温床にもなってしまう。現実に、私に対してもいわれ無き中傷や憶測があたかも既成事実であるがごとく流布されている。有名税と言ってしまえばそれまでだが、自由だからこそ、守らなければならないルールとモラルがあるはずだ。悪意をもって人に刃を向けるのであれば、やはり堂々と名乗るべきだろう。私に対して何か言いたいことがあるならば逃げも隠れもしない。面と向かって堂々と来ればよい。匿名性に隠れて「悪意」をばらまく輩は、この素晴らしいメディアを自らの行動によって汚していることに気づくべきだ。私はインターネットを利用している大多数の人々は、純粋にこのメディアを楽しみ、なおかつ正しい判断のできる人たちだと信じている。「悪意」の行動はそういった人たちにも不快な思いをさせているのをわかっているのだろうか。インターネットは確かに個人として自由に発信できるツールではあるが、これは世界中の人が自由に見ることができる「公」の場所だという事を、忘れてはいけない。「公」の場所には「礼儀」や「思いやり」の気持が必要なのだ。一人ひとりが「善なる発信」というものを心がけようではないか。この素晴らしいメディアを、誰もが楽しめるものにするために。

 

家族

家族とは、「無償の愛」の象徴だ。父や母が、子どもにたいして注ぐ愛情は、なんの見返りも求めるものではない。そして父、母、子供、孫。連綿と続く命は、はるか遠くの祖先から続いてきたものだ。父と母が出会わなければ、私はいない。祖父と祖母が出会わなければ、父と母もいない。我々のいまある命は、数えきれない奇跡の積み重ねによって与えられたものなのだ。「無償の愛」によって我々を育んでくれた先人のおかげでいま我々は生かされているのだ。両親や祖先に感謝するということはそういうことだ。そしてその奇跡は家族によってまた次の世代に繋がっていく。

 

武道

武道は、勝ち負けを競うだけのものではない。剣道にしろ、柔道にしろ、空手にしろ、必ず礼に始まり、礼に終わる。「武士道精神」が内包する「心」と「伝統」がそこにはある。いま世界中にその精神は広がり、日本人以上に武道を理解する外国人も少なくない。自分を磨き、見つめ直し、心身ともに鍛えることで、自己を確立し、人に対しての優しさを身に付けることが出来る。そして体得した「力」は決して自らの保身のために用いるのではなく、他を守るためにあることを忘れてはいけない。「自己犠牲」の精神こそが武道の神髄である。武道は、日本という国が生み出した世界に誇れる文化なのだ。

 


水は命の源だ。何しろ人間の体は70%ぐらいは水なんだから。私は自分が使う飲み水を、時々山に汲みに行っている。自然の中から命をいただいているわけだ。水も我々人間も、地球に育まれた「生命」なのだ。自然の恵みに感謝し、その自然によって生かされていることを心に刻んでおこう。

 

せがた三四郎

セガ・サターンのCMから生まれた熱血漢、せがた三四郎。そこに隠されていたテーマは「何事にも真剣に取り組め」というメッセージだ。明日も生きているという保障などない。だからこそ今、この時、一瞬一瞬を命を懸けて生きること。それが大切なのだ。彼は地球を守るために宇宙に消えてしまったが、死んでしまったわけではないと私は思っている。せがたの持つ「真剣」というパワーはいつの時代にも通用するものだからね。

 

句読点「、」

私の名刺には「藤岡 弘、」と書いてある。著書にも「藤岡 弘、」と書いてある。この「、」には「我は未だ未完成なり」の思いを込めている。私は、未熟であり未完成な人間である事を知っている。さまざまな失敗や挫折から生まれる劣等感をバネにこれまでも生きてきた。だからこそ、周囲に流されることなく生きていけるように自らの名前に「、」をつけたのだ。

 






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